やさぐれペダンティック

映画と舞台と調べ物

この先どう生きるかについて考えたこと

今週のお題「2018年の抱負」

 

あけましておめでとうございます。

年中行事の類にあまり目が向かない自分でも、年末年始はつい感慨にふけってしまう。

 

去年は楽しかった。しかし、悩み、迷走した一年であった。悩んだ内容というのが、概ね「この先どう生きるか」というものである。

 

社会と自分と仕事

「私は今の社会をこんなふうに良くしたい。そのために今こういうことをしています!」

こんな文章をカッコいいディスカッションの場面の写真と共にFacebookに堂々と投稿できるような人*1に、はっきり言って劣等感があった。

カッコいいディスカッションがどうこうというわけではない。そういう場には何度か参加しているし、結局のところ学生が実際に何らかの問題を解決できるというよりは、場数を踏んで議論のしかたを学習するという側面のほうが大きいということを知っている。

私が彼らの何に引け目を感じたかというと、

・社会に貢献したいという意志がナチュラルに生まれているように見えること(やりたいことと社会のニーズが一致していること)

・仕事というものに、なんというか大志がありそうなこと

・現段階で将来のビジョンがはっきりしていること

の三点である。

 

動機や最終的な目的がどうであれ、だいたいの仕事というものは結局のところ社会に貢献している(何が貢献なのかという話をするとややこしくなるので割愛する)。遊ぶ金ほしさで嫌々仕事をしていようが、その働きが社会を回していて稼いだ金で遊ぶという当人の目的が果たされているなら結構なことじゃないかというのが私の持論である。

現に私も「もし天災人災で住んでいる土地がメチャメチャになったとしても必要とされる仕事か」という観点で将来の道を選んだ。非力なモヤシ野郎で人好きもしない自分をこの世界で一個の人間として生きていける存在たらしめるもの、それがプロフェッション、という認識だ。

この考えの裏にあるのは、できることなら社会との関わりはあんまり持ちたくないが、それでも社会の中で生き抜いていかなければならないので、独立した一個人として生きる対価として社会に貢献するという価値観である。

 

一方、前述のタイプの人たちからは「できることなら社会と関わりたくない」なんて香りは微塵もなく、「困っている人たちがいるんだ。なら自分ができることをやって当然だろ?」というナチュラルボーンの感覚がある。アンパンマンを観ていた鼻たれ小僧の時代から我々が刷り込まれてきた、人間のあるべき姿だ。

 

こういう人を見ると、悩む。

 

 結果さえ出せていれば動機が何であろうが構わないだろうと前述したが、やはり「社会のお役に立ちてえ!自分頑張る!みんな喜ぶ!ザッツオールライト!」という黄金ストーリーの前に不安を覚えてしまうのもまた事実。

何で不安を感じているのかについて考えてみたところ、「別に自分は社会から生まれた社会太郎じゃあないんだから、自分のため、が第一義で結果的に公益にも貢献できれば御の字なんじゃないの」と堂々と言い切れるような働きもしていなければ目標もちゃんと定まっていない、故に自信がなかった、ということなのだろう。

 

結局やることやってないからだという所に帰結するわけだ......

 

ザ†新年っぽい流れ

 

というわけで2018年の抱負。

どんな人間を見ようが、自分はこうやって生きる、と揺らがない程度の成果を上げること。

そのためにあっちゃこっちゃ目移りせず一つのことに集中すること。

御託を並べずまずは行動をしてみること。

以上。

 

 

*1:ここで言及しているのはマジで意識の高い人であって、偉そうな講釈垂れるだけで何もしない意識高い系の奴らの話ではない